著者: 石井 大智

初心者でもわかるガバメントクラウド

特集
2025年09月20日1分
クラウドマネジメント

「ガバメントクラウド」とは何か?コロナ禍の教訓から生まれた、行政のデジタル化を進める国家的プロジェクトです。その仕組みやメリット、課題をわかりやすく解説します。

A person at a laptop with a stylus and visual overlay suggestive of AI agent development.
画像提供: Wanan Wanan / Shutterstock

「ガバメントクラウド」という言葉を耳にする機会が増えましたが、その実態を正確に理解している人はまだ多くないかもしれません。これは単に「行政のシステムをインターネット上のクラウドサービスに移行する」という単純な話ではありません。コロナ禍で私たちが直面した給付金支給の遅れや、ワクチン接種予約システムの混乱といった苦い経験。これらの教訓を踏まえ、国と地方自治体の情報システムを根本から見直し、統一された設計思想とルールのもとで再構築しようとする、壮大な国家的プロジェクトなのです。

その目的は、国民一人ひとりの利便性を飛躍的に高め、社会の変化に迅速かつ柔軟に対応できる、しなやかで強靭なデジタル行政を実現することにあります。しかし、この壮大な改革は輝かしいメリットばかりではありません。移行に伴う現実的な困難、コスト増加のリスク、そして新たな形の依存関係など、私たちが向き合うべき「影」の部分も存在します。

本記事では、このガバメントクラウドがなぜ今必要なのか、その背景から具体的な仕組み、そして私たちが享受できるメリットや乗り越えるべき課題まで、初心者の方にも分かりやすく、丁寧に解説していきます。

なぜ今、ガバメントクラウドが必要なのか?

ガバメントクラウド構想が加速した直接的なきっかけは、新型コロナウイルス感染症という未曾有の危機対応でした。全国民への特別定額給-給金の支給では、全国約1700の各自治体でシステムや事務手続きがバラバラだったために迅速な対応が困難を極め、多くの国民が不安な時間を過ごしました。また、情報共有の遅れは、医療体制の逼迫状況の把握や的確な政策決定の足かせとなりました。

これらの経験は、日本の行政デジタル化の「負債」ともいえる厳しい現実を、誰の目にも明らかにしたのです。データが整備されず、組織間で円滑に共有されなければ、いかに優れた政策も絵に描いた餅に終わってしまう。この痛切な反省が、国と地方のシステム設計を根本から変える大きなうねりとなりました。

そこで政府が打ち出したのが、「クラウド・バイ・デフォルト」の原則です。これは、情報システムを構築する際に、自前でサーバーを保有・管理する従来の方法(オンプレミス)ではなく、クラウドサービスを第一候補として検討するという考え方です。ガバメントクラウドは、この原則を具現化するものであり、単に個々のシステムをクラウドに置き換える「リフト&シフト」に留まりません。

デジタル庁が主導し、国と地方自治体が共同で利用できる「政府共通のクラウドサービスの利用環境」を整備することを目指しています。これは、いわばデジタル行政のためのOS(基本ソフト)のようなものです。この共通基盤の上で、各行政サービスに必要な機能(アプリケーション)を、まるでレゴブロックのように組み合わせ、迅速に構築・改修できるようにする。それぞれの省庁や自治体が個別にシステムを開発する「単独最適」から脱却し、共通の土台の上で、変化に強く、相互に連携可能なシステム群を構築する。これがガバメントクラウドが目指す大きな変革の姿なのです。

地方自治体はどう変わる?

ガバメントクラウド推進の大きな柱の一つが、地方自治体が担う基幹業務システムの統一・標準化です。基幹業務システムとは、住民基本台帳、各種税金、国民健康保険、介護保険、児童手当など、住民の生活に直結する重要な行政サービスを処理するための情報システムを指します。

現在、これらのシステムは全国約1700の自治体が、それぞれ異なるベンダーに、異なる仕様で開発・運用を委託しているのが実情です。その結果、同じ制度であっても自治体ごとにシステムが微妙に異なり、法改正があるたびに各自治体で多額の改修費用と時間がかかる、職員の異動の際にシステムの操作を学び直す必要がある、特定のベンダーに依存してしまう「ベンダーロックイン」が起こりやすい、といった様々な非効率が生じていました。

この課題を解決するため、政府は「2025年度(令和7年度)末まで」という明確な目標時期を掲げ、原則として全ての自治体が、ガバメントクラウド上に構築された「標準準拠システム」へ移行できる環境を整備することを決定しました。ここでの「標準準拠システム」とは、国が業務ごとに作成・公表する「標準仕様書」に準拠して開発されたアプリケーションのことです。

この取り組みが実現すると、自治体の姿は大きく変わります。デジタル庁が整備した共通基盤(ガバメントクラウド)の上で、複数のITベンダーが標準仕様に沿ったアプリケーションを開発・提供します。各自治体は、それらの選択肢の中から、自らの組織に最も適したアプリケーションを選んで利用する形になるとのこと。これにより、自治体はこれまでのようにサーバーの管理や大規模なシステム開発といった負担から解放され、本来注力すべき住民サービスの企画・提供に専念できるようになります。また、ベンダー間の健全な競争が促進されることで、コストの抑制と品質の向上が期待できるだけでなく、他のベンダーのシステムへの乗り換えも容易になり、行政の効率化が大きく前進するとされています。

「ノン・カスタマイズ」と「疎結合」

自治体のシステム標準化を成功させる上で、極めて重要な設計思想が「疎結合」と「ノン・カスタマイズ」の徹底です。従来のシステム開発では、自治体ごとの細かい要望に応えるため、基本となるパッケージソフトに多くの「カスタマイズ(独自改修)」を加えてきました。一見、現場のニーズに応える良い方法に見えますが、このカスタマイズが、システムの複雑化、改修コストの高騰、そしてベンダーロックインの温床となってきたのです。

そこで、ガバメントクラウド上の標準準拠システムでは、原則としてカスタマイズを認めません。国が定めた標準仕様書には、必ず実装しなければならない「実装必須機能」と、自治体の規模や政策判断によって選択できる「標準オプション機能」が定義されています。自治体はこの範囲内でシステムを利用することが基本となります。

では、条例に基づく独自施策など、標準機能だけでは対応できない業務はどうするのでしょうか。その答えが「疎結合」という考え方です。これは、標準準拠システム本体には手を加えず、必要な独自機能をAPI(Application Programming Interface)という仕組みを使って、外部の別システムとして連携させる方式です。まるでスマートフォンの基本機能に、後から好きなアプリを追加して連携させるようなイメージです。

この疎結合のアーキテクチャを採用することで、標準準拠システム本体はシンプルで強固なまま維持され、法改正などへの対応も迅速に行えます。同時に、独自機能の部分だけを柔軟に開発・改修することが可能となり、将来の拡張性や他のシステムへの乗り換えやすさも確保されるのです。この原則を徹底することが、過去のしがらみを断ち切るための生命線となります。

ガバメントクラウドの課題

ガバメントクラウドの導入は、行政サービスに多くの恩恵をもたらす可能性を秘めています。しかし、その輝かしい未来像の裏には、慎重に管理しなければならない多くの課題やリスクが潜んでいます。

ガバメントクラウドがもたらす恩恵として、まず挙げられるのがセキュリティと可用性の向上です。国が定める高いセキュリティ基準(ISMAP制度)を満たしたクラウドサービスが利用されるため、各自治体が個別に対策を講じるよりも、行政システム全体の安全水準が底上げされます。災害時にもサービスを継続できる可用性の高い環境が標準的に提供されることで、住民はより安心して行政サービスを利用できるようになります。

次に、迅速なサービス展開とコスト削減の可能性も大きなメリットです。クラウドの特性を活かすことで、新たなサービスを立ち上げる際の導入時間が大幅に短縮され、初期投資も削減できます。これにより、これまで導入のハードルが高かったAI(人工知能)やビッグデータ分析といった最先端技術を行政サービスに活用しやすくなるでしょう。

さらに、国産クラウドという選択肢が生まれたことも特筆すべき点です。当初、政府が求める要件は海外の巨大クラウド事業者に有利なものでしたが、2023年度の公募では、さくらインターネット株式会社が提供する「さくらのクラウド」が、期限までに要件を満たすことを条件に国産サービスとして初めて採択されました。国民の重要情報を取り扱うシステムにおいて国産の選択肢を持つことは、データ主権や経済安全保障の観点から極めて重要です。

これらのメリットは自動的に得られるわけではありません。「クラウドにすれば、安く・早く・安全になる」というのは幻想であり、使い方を間違えれば、以前より状況が悪化しかねないリスクを孕んでいます。

大きな課題の一つは、スケジュールと人員の逼迫という厳しい現実です。「2025年度末」という目標は非常に野心的であり、全国の自治体が一斉に移行を目指すことで、システムの開発や移行作業を担うITベンダーのキャパシティが逼迫し、「期限に間に合わない」自治体が続出する可能性が指摘されています。実際、政府も難易度の高い案件については2026年度以降の移行を認める救済スキームを用意しており、計画通りに進まないことが半ば前提となりつつあります。

また、移行後に膨らむ「運用コスト」への懸念も深刻です。クラウドは使った分だけ料金が発生する従量課金制が基本であり、設定や管理を誤ると、想定外の高額な請求が発生しかねません。コストを最適化する「FinOps」という専門的なノウハウを持つ人材が多くの自治体で不足しており、結果的にオンプレミス時代より運用費が増加する懸念が現場から上がっています。

さらに、形を変えた「ベンダーロックイン」のリスクも見過ごせません。標準化によって特定の業務システムへの依存は解消されても、今度はガバメントクラウドとして採択された特定のクラウド事業者が提供する便利な独自機能に深く依存してしまい、結果的に他のサービスへ乗り換えられなくなる危険性があります。特定のサービスでしか動かない設計を避ける強い意志が求められます。

加えて、データ主権と地政学的リスクも重い課題です。採択されているサービスの多くが海外事業者であるため、国民の重要データが物理的に海外に保管される可能性があります。米国の「CLOUD Act」のように、外国政府が自国企業にデータ提出を要求できる法律も存在し、国際情勢が不安定化する中での政治的リスク管理は不可欠です。

最後に、「責任共有モデル」の罠を理解しておく必要があります。クラウドでは、基盤の安全性は事業者が担保しますが、アカウント管理やアクセス権限の設定といった運用上のセキュリティ対策は、あくまで利用者である国や自治体の責任です。「クラウドだから安全だろう」と油断すれば、設定ミスから重大な情報漏洩事故に直結する危険性があるのです。

ガバクラを成功させるために

ガバメントクラウドは、硬直化した日本の行政システムを再生し、国民中心のデジタル社会を実現するための、避けては通れない国家プロジェクトです。その意義は極めて大きく、住民、職員、納税者の「三方良し」の未来を実現する可能性を秘めています。

しかし、その道のりは決して平坦ではありません。スケジュール遅延、コスト増、新たなロックイン、データ主権、セキュリティリスクといった数多くの課題が山積しています。この改革は、単なる技術の入れ替えではなく、業務プロセスの抜本的な見直し(BPR)、そして何よりも行政を担う人材と組織文化の変革を伴うものです。「クラウドに移行すれば、自動的に何かが良くなる」という安易な楽観論を捨て、現実的な課題と正面から向き合う覚悟が求められています。

この壮大な実験の成否は、理念通りに「標準に乗る勇気」を持ち、「本体は触らずAPIで拡張する」という地味な原則を、国も地方も、そしてベンダーも一体となって守り抜けるかにかかっています。国民一人ひとりにとっても、自分たちの情報がどのように扱われ、行政サービスがどう変わっていくのか、その動向を注視し続けることが重要です。